プラダの歴史
東京リサイクル家です。
今日のテーマはプラダの歴史です。
プラダの歴史 | |
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1913年 | プラダ創始者「マリオ・プラダ」、ミラノに皮革店をオープン。 マリオはヨーロッパやアメリカを旅して周り、皮革製品、銀器、クリスタルや貝殻でできたアクセサリーなど、洗練された数々の一流品を集め、それらを素材として鞄をつくり、ミラノの上流階級の間で話題となり人気を博す。またイタリア王室の御用達に。 |
1958年 | 「マリオ」死去。 その後、娘のルイーザ・プラダが店を継ぎ、プラダは革製品を扱う伝統店として続いてゆくものの、時代の変化とともに豪華な品々は人々のライフスタイルにそぐわなくなり、倒産寸前にまで追い詰められる。 |
1972年 | パトリツィオ・ベルテッリとの共同ビジネス開始。 |
1978年 | 「マリオ」の孫娘「ミウッチャ・プラダ」と、夫のパトリッツィオ・ベルテッリがファミリー・ビジネスを引き継ぎ、再びファッションブランド界の前線に返り咲く。 「ボコノ」と言われる、軽くて強い、防水性にも優れた素材を使ったバックを開発。 実はこのボコノは、もともと祖父マリオがアメリカから輸入して旅行鞄に使用したものだが、ミウッチャはこのナイロン生地を用いてリュックサックなどの軽くてカジュアルな鞄を製作し、瞬く間に人気を得る。 |
ミウッチャ・プラダ(Miuccia PRADA) 1950年イタリアのミラノ生まれ。 ミラノ大学では社会学を専攻し、博士号を受ける。 現代的で革新的な素材使いやデザインの斬新さ、女性らしさを表現できるデザイナーとして活躍。 | |
1980年代 | ナイロン・バッグに付けられたプラダの名を冠した三角プレートはブランドのシンボルマークとして広く知られるようになる。初期にはゴールド・チェーンのついたバッグが流行するが、近年ではクロのトートバッグが定番として人気が高い。 |
1983年 | バックやリュックだけではなくシューズ開発。 微妙な色合いの革を組み合わせ、ソールやつま先のラインに独特なデザインを施し、シューズの流行も牽引。 |
1988年 | レディースコレクションを発表。 |
1989年 | ウェアラインがスタート。 |
1993年 | セカンドライン「ミュウミュウ」を発表。 ミュウミュウのブランド名はミウッチャの子供時代の愛称に由来。 |
1994年 | メンズコレクション開始。 |
1998年 | 「プラダ・スポーツ」を発表。 また秋には「アクティブスポーツ」というスポーツライン登場。 赤いラインが特徴だが、これは2000年から参加しているヨットのアメリカズカップで、プラダ号のセールにも掲げられている。 アメリカ杯への参加後、このラインは「PRADA SPORTS」となった。 黒やグレーを中心とするカラー展開で赤のラバーロゴをトレードマークとし、合成ゴムや得意のナイロン素材を駆使して都会的なスポーティー・カジュアルを打ち出す。 |
1999年 | 「ヘルムート・ラング(HELMUT LANG)」、に続き「ジル・サンダー(JIL SANDER)」 を買収。また、イギリス靴の「チャーチ(CHURCHS)」も買収し、さらにLVMHと共同出資により「フェンディ(FENDI)」も買収した(後にLVMHに売却)。 日本法人はプラダ本社100%出資のプラダ・ジャパンに、ジル・サンダー、ヘルムート・ラング、チャーチの各ブランドと、アイウェアのEID、コスメティックのCIDの6社。プラダのビューティラインとして発売された基礎化粧品はそのデザインでも注目を浴びている。 薬さながらのシンプルかつストイックな形状「透明フィルムの袋から使いきりタイプの容器に入った化粧品がのぞいている」は、広告で化粧品の効能を長々と述べる以上に、化粧品の鮮度と機能性を消費者の視覚に十分に訴えていると言えよう。 |
2003年 | 東京・銀座中央通りのセフォラ跡地に国内最大級のブティックをオープン。また、南青山にジャック・ヘルツォークとピエール・ド・ムーロン設計の国内最大の旗艦店「エピセンター・ストア」をオープン。 |
プラダは、その伝統を継承しつつ、時代のニーズを的確に捉え、次々に魅力的なアイテムを発表。世界中から注目される人気ファッションブランドとして成長を遂げている。 |
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